ミューズは願いを叶えない


10月20日 某時間
某マンション内 エレベーター前

 通話を終え、両手首にぶら下がったビニール袋を煩わしく思いながら、王泥喜は携帯をズボンのポケットに仕舞う。そして、エレベーターのボタンを押した。
 見れば、自分が向かうべき階が点灯していて、それだけで気分が萎えた。
 今夜も見張り。
 お泊まり気分のみぬきと、意地になっている響也がお供になるらしく、喧しくなりそうだぞと溜息をついた。さっきの携帯は響也からで、一端自宅に戻ったみぬきを、車に乗せたという連絡だったのだ。
「…なんか煩くなりそうだ。」
 引率の先生にでもなった気分に、しょんぼりと前髪が頭を落とす。それは、一階に到着し、かぱりと口を開いたエレベータからの風に揺れた。
 乗り込もうとして顔を上げた王泥喜に、中にいた男が眉を潜める。

「君は…。」

 仕立ての良いスーツを身に纏った男。その胸元には見慣れた天秤と向日葵のバッジ。しかし、それと同様に、男の顔には見覚えがあった。
「ご無沙汰…してます。」
 牙琉霧人の事務所で共に勤務していた兄弟子。王泥喜自身が所長である霧人を断罪した経緯もあって、交流などなく今まで知らずに過ごしていた。こんな場所でばったり出会うなど、考えた事もなかった。 

「恩人を裏切って、君は平気な顔でそれを着けているんだ。」

 鼻で嗤う男に王泥喜は無言で頭を下げた。
「あそこで働いてた人間が、どんな想いで過ごしているか考えた事もないんだろう。正義感だけ振り翳して大した男だよね、君は。」
 口汚い言葉の真意も、成歩堂なんでも事務所に拾われるまで貧窮していた王泥喜にはわかる。属していた事務所のスキャンダルは、それまでの栄光と相俟って彼を打ちのめしたに違いない。
 兄弟子が口にしているのが、尊敬している所長を辱めた王泥喜への憤りではく、現在の自分自身の処遇だとわかっても、敢えて反論しようとは思わなかった。しかし、それは王泥喜が非があると感じている訳ではなく、黙って聞いていればそのうちに通り過ぎていく嵐のようなものだと思っていたからだ。
 流石に王泥喜よりもキャリアの長い弁護士らしく、罵詈雑言の豊富さに妙な感心をしながら聞いていると、男が息を飲む音が聞こえた。そうして、それっきり滑らかな悪口は止まってしまう。
 不思議に思い顔を上げると、少々顔色の悪い兄弟子が唇を引き結んでいるのが見えた。
 
「王泥喜さんを虐めないでください!」

 それと同時に、憤慨したみぬきの声が背中から響く。
慌てて振り返れば、背後にみぬきと響也が立っていた。みぬきは両手を握りしめて、自分より上背がある男を睨んでいる。きつい表情なのは、響也も同じだった。
「響也さん。」
 先程とは打って変わった弱々しい口調で、兄弟子は自分を睨み付ける検事の名を呼ぶ。
「兄貴を慕ってくれているのは嬉しいけど、おデコくんを責めるのはお門違いも甚だしいね。」
 きつく眉を寄せた響也は、威圧的な雰囲気を隠そうともしていなかった。「僕が間違っていたのかな? 犯罪者は牙琉霧人だったはずだよ。」
「いいんです、牙琉検事。」
 王泥喜は響也を制し、兄弟子との間に割って入った。そして、もう一度深く頭を下げる。
「色々ご迷惑をお掛けしました。そのことについては、謝ります。申し訳ありません。」
 これ以上は自分らの旗色が悪いと感じ取ったのだろう、兄弟子は逃げるようにその場を後にした。
「塩撒きましょうよ、塩。王泥喜さん、早く出してください。」
「なんで出せるんだよ。あるならみぬきちゃん出してよ。」
「みぬき、出せるなら王泥喜さんに聞きませんから!」
 憤怒の表情で腕を組み、ふんぞり返って告げるみぬきに、王泥喜は苦笑する。コンビニ袋を漁って、菓子袋を彼女に渡した。
「…さっき買った塩味のポテトチップスならあるけど。」
「仕方ありませんねぇ。」
 それでも可愛らしく頬を膨らせたまま、みぬきが勢いよく袋を開けた。後は茜のように中身を頬張りかみ砕いていく。微笑ましいような、呆れるような複雑な思いで見つめる王泥喜の肩を響也は掴んだ。
「全くの言いがかりだろう。君は怒らないのかい?」
「ええと、まぁ。馴れてるっていうか…怒るべき時じゃないっていうか。」
 本気で腹が立たないのだからと告げる王泥喜に、響也は納得した様子は無い。それでも気を使ってくれたと思ったらしく、謝罪の言葉を口にした。
 王泥喜は、慌てて否定の為に両手を振り回す。
「それこそ、牙琉検事には関係ないじゃないですか。俺は大丈夫です。」
「兄貴の為にあんな風に言われるのは、僕は我慢出来ないよ。おデコくんは兄貴を助けてくれたのに。」

 思いもかけない言葉に、王泥喜は絶句する。
(俺が先生を助けた? 断罪した俺が?)

「わかりました。牙琉さん、みぬきと一緒に王泥喜さんを意地悪な義理のお兄さんから守りましょう!」
 口の中に塩を撒き終わったらしいみぬきがふたりの間に入って来ると、響也は驚いた顔をして、それから楽しげに笑う。
「そうだね。貴重なおデコくんは守ってあげなきゃいけないね。」
「そうですよ。なんたって牙琉さんは王子様なんですから、おデコは守らないと!」
「異議あり! 貴重なオデコって何ですか!?」
 二人に額を指さされた王泥喜は引きつった笑顔を浮かべて沈黙する。そして、無言でエレベーターのボタンを指先で押した。


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